第1章 15歳に戻る
前世のアリシアは悪役令嬢だった。平民の恋敵を好き放題に踏みにじっては、ことごとく思いどおりにならず――最後はみじめに破滅。
転生後、平民から這い上がって大魔導師にまで成り上がったアリシアは、ある日ふいに前世の記憶を取り戻した。その瞬間、思ったのだ。
あの頃の自分を殴ってでも叩き起こしてやりたい、と。
男の何がいい。魔法こそが一生の真実の愛だ。
……ところが、魔法事故で彼女は前世へと戻ってしまう。
いまの彼女は、溺愛されて育った公爵令嬢。まもなく王立学院の魔法科へ入学する新入生で、あの「頭の悪いこと」はまだ何ひとつ始めていない。
若返ってやり直せるのは一見ありがたい。だが彼女は、魔法が高度に普及した高魔世界で二百年も努力し、ようやく聖魔導師にまで到達したのだ。それが一朝にして全てを失った――大富豪がいきなり乞食になったようなもの、受け入れられるはずがない。
しかもアリシアは、魔法がもたらす数々の便利さにすっかり慣れきっていた。彼女の世界では魔法技術が星を飛び出し宇宙へ向かっていたのに、こちらの世界の魔法研究は驚くほど遅れている。魔法はごく一部の者だけが触れられる特別な力で、人々は畏れ、怯え、生活を良くするために使おうなど誰も考えない。
ここには、ありふれた魔法街灯すらない。まして魔法家具、魔法網、転移陣、飛空艇、魔法騎獣といったインフラなど、影も形もない。
そして何より――苦労して建て直した私の魔法塔を返せえええっ!!
……嘆いた最後に、彼女は吹っ切れた。
やり直し? 結構。どうせなら、全部こっちで作り直してやる。
アリシアは自分の魔法塔の頂に立っていた。
いや、正確には――いままさに訪れようとしている爆発の中心に、立っていた。
ここは彼女の私有魔法塔。帝国最高峰の魔法学院、その裏山にそびえ立つ雲突きの塔だ。最上階は彼女専用の実験区で、四方の壁には幾重にも防護のルーンが刻まれている。中央には巨大な実験台、その上には半身ほどもある坩堝が鎮座し、いまはゴボゴボと淡い紫煙を吐き出していた。
彼女は聖ロット帝国最年少の聖魔導師。人々に「法神」と呼ばれている。二百年の研鑽で、魔法研究は骨の髄まで染みついた本能になっていた。そして実験の爆発など、彼女にとっては日常茶飯事だ――魔術師の実験が何度も爆ぜないわけがない。
だから坩堝の中のエネルギーが荒れ、ルーンが不吉な光を放ち始めても、彼女は逃げなかった。眉をひそめるだけで防護障壁へ魔力を一筋補い、ついでに材料をひとつ放り込んで、暴走の芽を押さえ込もうとした。
だが――今回は見誤った。
爆発は予想よりずっと早く、そして凄まじかった。轟音が塔全体を揺らし、衝撃波が幾重もの防護を引き裂く。壁に刻んだルーンがひとつ、またひとつと点灯しては連鎖的に爆ぜ、灼けるような白光を巻き込んだ熱波が彼女へ襲いかかった。
アリシアが心の中で悪態をつく暇だけはあった。
次の瞬間、視界は白に呑まれ、意識は闇へ沈んだ。
どれほど経ったのか。
彼女は再び「目を覚ました」。
最初に感じたのは痛み――頭をハンマーで殴られたようにこめかみがズキズキと脈打ち、魂そのものが裂かれて貼り直されたような、言いようのない不快感。次に感じたのは、見知らぬ柔らかさだった。身体が沈み込むほど分厚い寝台、甘ったるい花の香りと古い木製家具の匂い。魔法塔の冷たく乾いた石の寝台、薬草の匂いとは、あまりにも違う。
アリシアはゆっくりと目を開けた。
天井からは装飾過多な水晶灯が吊られ、午後のぬくい光がカーテンの隙間から漏れ、舞う埃まで金色に染めている。身を起こし、両手を見下ろした。
細い。白い。力がない。十四、五の少女の手だ。爪は丸く整えられ、手首には――いつ結んだのかも忘れていた、淡い桃色のリボン。
彼女はしばらく呆然とした。
この手は、法神の手ではない。
アリシア・フォン・ロゲスト。これが第一の人生の名。甘やかされて育った公爵令嬢で、嫉妬から平民の少女に数々の悪事を働き、最後は悲惨に終わった。彼女はずっと、それを長い生の中の曖昧で馬鹿げた夢だと思っていた。
第二の人生でも名はアリシアだが、出自は平民。卓越した魔法の才を頼りに二百年を積み上げ、最年少の聖魔導師にまで到達した――ついさっき爆発で吹き飛ばされ、前世の身体へ叩き戻された、この法神がそれだ。
「……私、過去に戻ったの?」
呟いて、すぐ苦笑した。
「大富豪が乞食になるにしたって、ここまで非常識じゃないでしょうに」
彼女は身体を確かめ直す。良い知らせは、この肉体が確かに第一の人生の「本物」だということ。血肉も魂も、ぴたりと噛み合っている。悪い知らせは、爆発が魂を傷つけたことだ。いまの実力は二割ほど。せいぜい大魔導師と互角――とはいえ、この世界の魔法水準は低く、最強でも大魔導師止まりだ。大手を振って歩けるのは変わらないが、完全回復には長い療養と、魂を癒す魔薬が要る。
魔薬。
アリシアは目を細めた。この世界には魂治療の魔薬の処方そのものも存在しない。だが彼女は、世界でも指折りの魔薬師だ。材料なら――集めればいい。
扉の外から、コンコンコン、と控えめなノック。
続いて、遠慮がちな女声がした。
「アリシアお嬢様……お目覚めでいらっしゃいますか」
ルナ。記憶を探ってようやく思い出す。今生で幼い頃から仕えてきた侍女だ。アリシアは息を整え、声に余計な緊張が混じらないようにして言った。
「入って」
扉が開き、ルナが洗面器を抱えて入ってくる。後ろには衣服を持った若い侍女もついていた。主人がすでに起き上がっているのを見て、ルナは明らかに驚いた様子だ。いつもの公爵令嬢なら、三度四度と呼ばれてようやく起き、機嫌を損ねて一悶着――が常だったのだから。
ルナは礼をして言う。
「お嬢様、本日はお早いお目覚めでございますね。お支度をなさいますか」
アリシアは一瞬だけ彼女の顔を見た。記憶のままのルナ。若いのに落ち着き、所作の端々に規律がある。視線を引き、淡々と頷く。
「ええ、お願い」
ルナは水を運び、今日は風が強いからショールを、と探るように言ったが、アリシアは首を振った。その些細な違いに、ルナは心の帳簿へそっと書き足す。お嬢様は昔、冷えを何より嫌っていた。
身支度の最中、ルナはいつものように、リボンとレースと宝石で飾り立てた桃色のふわふわドレスを選ぼうとした。だがアリシアが止める。
「箪笥のいちばん奥の、シンプルな白いドレス。あれにして」
ルナは目を瞬かせたが、余計なことは言わず従った。ただ動きながら、ちらちらと主人を盗み見る。今日のお嬢様は、どこか違う。以前なら装飾の多い服や宝飾品に目を輝かせたのに、いまは桃色のドレスにすら視線を向けない。
アリシアはその視線を気にしなかった。
朝食の席で、侍女が報告する。仕立て屋が来ている、と。あと一か月もせず、彼女は王立学院の魔法科へ入学する。仕立て屋は制服の採寸に来たのだ。貴族は馴染みの仕立て屋に上等な布を持ち込み、身体に合う一着を誂えるのが常。
採寸役は愛想のいい中年の女主人だった。
「アリシアお嬢様、また背が伸びましたねえ」
その言葉に、アリシアは自然に返す。
「そう? 最近、服が窮屈だと思っていたの。動きやすい型はあるかしら。学院に持っていく服も何着か誂えたいの」
追加注文と聞いて、女主人の笑みが濃くなる。助手に分厚い見本帳を二冊持ってこさせた。アリシアはぱらぱらとめくる。絹、上質な麻、毛織……ページを滑る指が、ある一枚で止まった。獣筋混紡の粗布。艶はあるが硬く、どう見ても柔らかくない。
前世、錬金を始めた頃に愛用した魔蜘蛛糸を思い出す。処理すれば絹より滑らかで、強靭で、魔法陣すら刺繍できた。
アリシアは何気なく尋ねた。
「これより細くて、もっと強い糸布はある? ……魔蜘蛛の糸も、布にできるって聞いたのだけれど」
女主人は一瞬固まり、すぐ愛想笑いに戻る。
「お嬢様、それはさすがに……錬金術師の領分では? それに魔蜘蛛の糸は毒があると聞きます。肌に触れただけで腐食するとも。どうかお気をつけくださいませ」
アリシアは反論せず、視線を落とした。
蜘蛛糸の毒など大半は噂だ。むしろこの世界でゴミ扱いされ捨てられている低級の糸こそ、前世では法外な値の魔法布になり、魔法陣を刻める「当たり」だった。
最も基本的な蜘蛛糸布すら存在しない。
アリシアは見本帳を閉じ、適当に数種の布を選んで注文を終えた。だが胸の内では計算が回り始めている。
――なら、自分でやるしかない。
前世で身につけた蜘蛛糸織りの技が、ようやく活きる。待ちわびた日が、やっと来たのだ。
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